2006年01月28日

鈴木清順

チャンネルNECOで、「東京流れ者」「殺しの烙印」。


「東京流れ者」は1966年の日活映画で、主演は渡哲也。若い、と思ったが、子供の頃に好きだった「西部警察」の大門と実はそんなにイメージが変わっていなくて、それがまた良かった。

鈴木清順監督の映像はビビッドで、見る者を引き込んでいく。特に、さっきまでケラケラ笑いながらマンガを読んでいた女の子が撃たれて、服がはだけた白い乳房に鮮血が流れるシーンが印象に残っている。

主演の渡が演じるのは、組が解散しても親分への義理を忘れない元ヤクザの若者、人呼んで“不死鳥の哲”。タイトなスーツに身を包んではいるものの、その中身は義理を第一に生きる古いタイプのヤクザだ。

そもそも昔のヤクザが本当に義理を大切にしていたのか、僕は知らない。いつの時代でも年長者が「最近の若いものは……」と嘆くのと同じように、「昔気質のヤクザ」というイメージはステロタイプのファンタジーなのではないだろうか。

実在するどこかの親分が、自分をモデルにした映画を見て「ヤクザを美化しすぎだ」と語っていたという話を何かで読んだことがある。人々のアウトローへの憧れは、現実世界のヤクザとはまた別の、物語の中で形式化された生き様としてスクリーンに投影されていたのかもしれない。

二谷英明が演じるヤクザ(役名失念)は義理に縛られてもがく哲の生き方を否定し、そんな二谷の全てを哲は否定する。しかし哲は、自分が義理でつながっていると勝手に思い込んでいた親分に裏切られてしまうのだ。彼の価値観でいえば、親が黒いと言えば白いものも黒いと言わなければならない関係に逆らい、哲は親分に銃口を向ける。そして盃ではなく、洋酒のグラスを怒りで握りつぶす。

自分の信じてきた形式的な任侠の枠組みからはじき出されたヤクザは、最後のシーンで闇に消えていく。「浪花節的なヤクザの生き様」と「スタイリッシュな映像」という矛盾の中で、流れ者にならざるをえなかった哲の心持ちは、変わっていく日本社会とともに自らも変わらなければならない60年代の人々のそれなのだろうか。


「殺しの烙印」の主演は宍戸錠。「難解すぎる」という理由で鈴木清順が日活を追われるきっかけとなったという、1967年の作品。殺し屋である主人公の心理を中心に、モノクロの映像で描かれる。現実離れした世界観は、確かにわかりにくいかも。闇に浮かぶ真理アンヌの姿態が美しい。


あと最近ケーブルで見た映画→「呪怨」「呪怨2」「ガール6」
posted by 犬TV at 22:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 観る
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